置き去りにされた歳月、置き去りにされた人々~昭和から平成初期、中国残留邦人の帰国政策における政府の罪を深く省みる

戦後責任を放棄した国家 – 中国残留邦人政策の悲劇

「祖国」という言葉が、これほど空虚に響くことがあるだろうか。中国残留邦人たちにとって、「祖国日本」とは、彼らを見捨て、長い沈黙の末にようやく「帰国」を許したものの、その後も差別と無理解の連鎖を続けた冷酷な存在でしかない。昭和末期から平成初期にかけての中国残留邦人帰国政策は、日本政府による戦後責任の放棄と人権侵害の歴史そのものである。

「見捨てられた日本人」という戦後の闇

戦後40年以上、中国の地で「忘れられた日本人」として生きることを強いられた残留邦人たち。彼らの存在は、日本政府にとって「不都合な真実」でしかなかった。敗戦国日本は、自国民保護という最も基本的な国家の責務すら放棄したのである。

特に深刻だったのは残留孤児の問題だ。幼くして親と生き別れ、中国人養父母に育てられた彼らは、日本人としてのアイデンティティすら持てないまま成長した。その間、日本政府は彼らの存在を積極的に調査することもなく、「自己責任」という名の無責任な態度を貫いた。これは単なる怠慢ではなく、戦争責任から目を背けるための組織的な国家的隠蔽であったと言わざるを得ない。

「遅すぎた帰国政策」という名の欺瞞

昭和50年代後半になってようやく本格化した帰国政策。しかし、それは決して残留邦人たちへの真摯な謝罪や補償ではなかった。政府はあくまで「人道的見地」という曖昧な立場を取り続け、自らの責任を認めることを頑なに拒否した。

帰国手続きにおいても、日本政府の姿勢は冷酷極まりなかった。「日本人の血」を証明するための厳格な身元調査。わずかな言葉の記憶や風習の断片を頼りに「日本人らしさ」を証明させる屈辱的な審査。それは国家による二次被害以外の何物でもない。

平成に入ってからも、帰国した残留邦人たちを待っていたのは、冷たい現実だった。言葉の壁、経済的困窮、年金問題の放置、そして何より日本社会からの根深い差別と無理解。政府は帰国を「許可」しただけで、その後の生活支援については長らく真剣に向き合おうとしなかった。

人間性を踏みにじる同化政策の悲劇

最も許し難いのは、帰国した残留邦人たちに対する同化政策の押しつけである。数十年にわたる中国での生活で形成されたアイデンティティや文化的背景を無視し、「日本人らしさ」を一方的に強要する政府の態度。それは彼らの人間としての尊厳を踏みにじるものだった。

「日本語ができないなら帰化した中国人と何が違うのか」という役人の言葉に象徴されるように、政府の姿勢は差別的で排他的だった。彼らは本来、政府の戦争責任と戦後放置の結果として日本語を学ぶ機会を奪われた被害者だというのに。

支援団体の懸命の努力にもかかわらず、行政は縦割りの弊害から逃れられず、残留邦人への対応は常に後手に回り続けた。「特別給付金」制度なども、あまりに遅く、あまりに不十分だった。

国家責任の放棄という罪

平成に入っても、政府の政策は抜本的な解決には至らなかった。帰国者への住宅支援や医療保障は不十分なまま放置され、高齢化した残留邦人たちは、自らの余生を母国とは名ばかりの異国で、貧困と孤独の中で過ごすことを強いられた。

残留婦人たちの多くは、自分の子や孫の通訳に頼らなければ病院にも行けない状況に追い込まれた。尊厳ある老後は、彼女たちには与えられなかった権利だったのだろうか。

このような状況を放置した政府の責任は重大だ。それは単なる政策の失敗ではなく、戦争責任と戦後責任を一貫して放棄し続けた国家の罪と言える。

消えゆく声、残される教訓

今、残留邦人の多くは高齢化し、その声は次第に小さくなりつつある。彼らの訴えに真摯に耳を傾けることなく、政府は時間の経過に乗じて問題の風化を待っているかのようだ。

平成の30年間で、真の意味での謝罪と補償は実現しなかった。中国残留邦人問題は、日本の戦後政治が抱える根本的な欠陥—歴史的責任から目を背け、被害者の声に真摯に向き合わない姿勢—を象徴している。

私たちは問わなければならない。なぜ政府は彼らを見捨て続けたのか。なぜ真の謝罪と補償を拒み続けたのか。そして何より、このような悲劇を二度と繰り返さないために、私たちは何を学ぶべきなのか。

残留邦人問題は過去の問題ではない。それは現在進行形の人権侵害であり、国家の責任放棄という重大な政治的課題なのである。彼らの晩年を少しでも平和なものにするための政策転換は、今からでも決して遅くはない。しかし、時間は残されていない。

今こそ、政府は謝罪と補償を明確に行い、残留邦人とその家族に対する包括的な支援策を実施すべきである。それが、「祖国」を名乗る資格の最低条件ではないだろうか。