昭和の高校生が抱いたシャープ製マイコンX1ターボへの無限の夢

プロローグ

令和の今、若い世代の皆さんはスマートフォンを手に、瞬時に世界中の情報にアクセスし、高性能なゲームを楽しみ、SNSで友人たちと繋がっています。確かに素晴らしい時代です。しかし、私が高校2年生だった昭和57年(1982年)の春、シャープから発売されたパーソナルコンピュータ「X1」を初めて雑誌で見た時の衝撃と、その後に抱いた夢の大きさは、現在の若者たちが抱く夢の数百倍、いや数千倍にも匹敵するものだったと確信しています。

運命の出会い – X1との邂逅

昭和57年の春、私は近所の本屋で「月刊マイコン」を立ち読みしていました。当時はまだ「パソコン」という言葉よりも「マイコン(マイクロコンピュータ)」という呼び方が一般的で、私たち高校生にとってコンピュータは遥か遠い存在でした。大学や企業にある巨大な機械というイメージしかなかったのです。

ページをめくっていると、そこに現れたのがシャープX1の美しい写真でした。黒いボディに赤いラインが入ったスタイリッシュなデザイン。当時の家電製品とは一線を画す、まるで未来から来たかのような外観に、私の心は一瞬で奪われました。価格は本体だけで約20万円。当時の大学生のアルバイト代が月3万円程度だった時代に、高校生の私には雲の上の存在でした。

しかし、その瞬間から私の人生は大きく変わったのです。

深夜まで続く妄想の時間

X1を知ってからというもの、毎晩布団の中で私は想像を膨らませていました。もしもX1が手に入ったら、私は何をするだろうか。まず、BASIC言語を覚えて簡単なゲームを作ってみたい。そして、友達を驚かせるようなプログラムを組んで、学園祭で発表したい。将来は自分でソフトウェア会社を起こして、世界中の人が使うプログラムを作るんだ。

当時の私にとって、コンピュータは魔法の箱でした。画面に文字を表示させるだけでも、まるで機械と対話しているような神秘的な体験に思えました。ゲームセンターで見るアーケードゲームのような美しいグラフィックスを自分で作り出すことができるなんて、まさに夢のまた夢でした。

毎晩、私は頭の中でプログラムを組んでいました。「10 PRINT “HELLO WORLD”」から始まって、複雑な計算をするプログラム、美しい模様を描くプログラム、そして自分だけのオリジナルゲーム。実際にキーボードを触ったこともないのに、私の頭の中では無数のプログラムが動き回っていました。

大学生活とX1との運命的な出会い

雑誌との格闘

お金を貯める一方で、私はコンピュータ関連の雑誌を片っ端から読み漁りました。「月刊マイコン」「I/O」「マイコンBASICマガジン」など、小遣いの大部分をこれらの雑誌代に費やしました。まだ実機を触ったことがないにも関わらず、私はBASIC言語のコマンドをほぼすべて暗記し、プログラムリストを見ただけでどんな動作をするか想像できるようになっていました。

特に衝撃的だったのは、X1ターボの高解像度グラフィック機能についての記事でした。640×400ドットという当時としては驚異的な解像度で、美しい絵を描くことができる。しかも、デジタルRGB出力により、くっきりとした映像をディスプレイに表示できる。この技術的なスペックを読むたびに、私の胸は高鳴りました。

夜な夜な、私は雑誌に掲載されたプログラムリストを手で写し取り、ノートに清書していました。実際に動かすことはできないけれど、いつかX1を手に入れた時のために、プログラムのライブラリを作っておこうと思ったのです。今思えば、なんと青春らしい努力だったでしょうか。

そして昭和59年(1984年)、私が大学受験を控えた高校3年生の秋、シャープから「X1turbo」が発売されました。従来のX1をはるかに上回る性能を持つこの新機種を雑誌で見た時、私の心は再び激しく揺さぶられました。

より高速なCPU、拡張されたメモリ、さらに美しいグラフィック機能。特に印象的だったのは、スプライト機能による滑らかなアニメーション表現でした。これまで憧れ続けていたアーケードゲームのような動きを、家庭でも楽しめるようになったのです。

しかし、価格はさらに高くなっていました。本体価格は30万円近く、モニターやプリンターなどの周辺機器を含めると、軽く50万円を超える計算でした。大学受験を控えた私には、もはや手の届かない存在になってしまいました。

それでも私は諦めませんでした。大学に入ったら、必ずX1turboを手に入れるんだ。そのために、大学でもアルバイトを続けよう。将来はコンピュータ関連の仕事に就いて、世界を変えるようなソフトウェアを作るんだ。

X1turboへの憧憬

高校時代の憧れを胸に大学に入学した私は、念願のX1ターボを手に入れるため、大学でもアルバイトに明け暮れる日々を送りました。家庭教師、コンビニの夜勤、そして夏休みには工場での短期労働まで。同じ学科の友人たちがサークル活動やコンパに参加している間、私は朝から晩まで働き続けました。

大学1年の冬、ついに貯金が40万円に達した時、私は迷わず秋葉原へ向かいました。当時の秋葉原は今とは全く違う雰囲気で、小さな電子部品店が軒を連ね、マイコンショップも数軒しかありませんでした。その中の一軒で、私は運命のX1ターボと対面したのです。

店員さんに「学生さんですか?ずいぶん真剣に見てますね」と声をかけられた時、私は思わず涙が出そうになりました。2年間憧れ続けた機械が、目の前にあるのです。黒いボディに赤いライン、想像していた通りの美しいデザイン。しかし、欲しい構成では価格は20万円以上。モニター・プリンター・ソフトを含めると60万円を超えてしまいます。

「すみません、もう少しお金を貯めてから出直します」と言った私に、店員さんは「君みたいに真剣な学生さんには、分割払いでも構いませんよ」と提案してくれました。その優しさに感動した私は、その場でX1の購入を決めました。残りの代金は月々2万円ずつ、アルバイト代から支払うという約束で。

「なんでそんなに必死になってお金を貯めてるの?」と友達に聞かれるたび、私は目を輝かせてX1の話をしました。しかし、当時はコンピュータに興味を持つ大学生も珍しく、多くの友人には理解されませんでした。「そんな高い機械買って何するの?」「ゲームなら普通のファミコンで十分でしょ?」そんな言葉に、私は心の中で反論していました。

違うんだ、これは単なるゲーム機じゃない。これは未来への扉なんだ。自分の想像力を形にできる道具なんだ。世界を変える可能性を秘めた機械なんだ。

現代の若者への想い

令和の今、私は50代半ばを迎え、IT業界で30年以上のキャリアを積んできました。振り返ってみると、あの頃のX1への憧憬が、確実に私の人生を方向づけてくれました。結局、X1turboを購入できたのは大学2年生の時でしたが、それまでの2年間、想像だけで培ったプログラミングの知識は、実機を手にした瞬間に花開きました。

現代の若者たちは、私たちが夢見た以上の技術を当たり前のように使いこなしています。スマートフォンの処理能力は、当時のX1turboの数万倍以上です。インターネットを通じて、世界中の知識にアクセスできます。プログラミング環境も無料で手に入り、作ったアプリケーションを世界中の人に配布することも可能です。

しかし、だからこそ思うのです。当時の私たちが抱いていた「憧れ」の純度の高さを。手に入らないからこそ、想像力を最大限に働かせていた時代の美しさを。限られた情報の中で、無限の可能性を夢見ていた青春の輝きを。

技術への純粋な憧憬

昭和の時代、コンピュータは本当に特別な存在でした。一般家庭にはまだ普及しておらず、触れる機会も限られていました。だからこそ、私たちはコンピュータを神聖な存在として崇めていました。一文字でもプログラムが動いた時の感動は、まさに魔法を目の当たりにしたような気持ちでした。

X1のカタログを何度も何度も読み返し、スペック表を暗記し、まだ見ぬソフトウェアに思いを馳せる。そんな日々の中で、私たちの想像力は無限に膨張していきました。制約があるからこそ、創造性が生まれる。手に入らないからこそ、憧れが純化される。そんな時代だったのです。

現代の若者たちには、ぜひその頃の私たちの気持ちを理解してほしいと思います。技術に対する純粋な憧憬、未知への探求心、そして限られた条件の中で最大限の創造性を発揮しようとする情熱。これらは、どんなに技術が進歩しても、決して色褪せることのない人間の美しい感情だと思うのです。

おわりに – 夢を抱き続けることの大切さ

あの頃の私が抱いたX1への夢は、確かに現実のものとなりました。しかし、それ以上に大切だったのは、夢を抱き続けることの力でした。具体的な目標があったからこそ、私は努力を続けることができました。未来への明確なビジョンがあったからこそ、困難な道のりも乗り越えることができました。

令和の若者たちにも、同じような熱い夢を抱いてほしいと願っています。今は何でも手に入る時代かもしれませんが、だからこそ本当に価値のある夢を見つけることが重要です。そして、その夢に向かって純粋な気持ちで努力を続けてほしいのです。

昭和57年の春、一台のマイコンに心を奪われた高校生の夢は、こうして現在まで続いています。技術は変わっても、人間の創造への渇望は変わりません。次の世代の若者たちが、私たちを超える夢を抱いてくれることを、心から期待しています。