懐かしの憧れ機 – シャープMZ-2500と共に歩んだ青春の記憶

出会い – 昭和63年の衝撃

私が初めてシャープのMZ-2500を目にしたのは、昭和60年(1985年)の秋のことだった。当時大学生だった私は、駅前の大型電気店のショーウィンドウに展示されていたそのパソコンに一目惚れしてしまった。漆黒のボディに緑色の液晶モニターが映える洗練されたデザイン。キーボードの打鍵感も絶妙で、まるで未来からやってきた機械のように思えた。

その日以来、学校帰りには必ずその電気店に立ち寄るようになった。店員さんも私の熱意を理解してくれたのか、閉店間際でも気さくに操作を教えてくれた。そのたびに私はMZ-2500のカタログを一枚もらって帰り、自宅で何度も読み返した。当時の私の部屋の壁には、アイドルのポスターではなく、MZ-2500の広告が貼られていたほどだ。

当時発売されていたパソコン雑誌を片っ端から買い集め、MZ-2500の特集記事を探した。「Z-BASICプログラミング入門」「MZ-2500グラフィックス徹底解説」など、理解できない専門用語だらけの記事を、辞書を片手に必死で読み解いた。クラスメイトが流行の音楽や映画の話をしている間、私の頭の中はMZ-2500のことでいっぱいだった。

憧れの日々 – 平成元年の熱狂

平成に入ったばかりの頃、友人の家で実際にMZ-2500を触らせてもらう機会を得た。起動音が鳴り、画面にシステムの初期化メッセージが表示された瞬間、胸が高鳴るのを感じた。16ビットCPUを搭載し、グラフィック性能も当時としては最高峰。特にFM音源から奏でられる音楽の美しさは衝撃的だった。

「すごいなぁ…」思わずため息が漏れた。友人はキーボードを叩き、「簡単なプログラムなら俺にも書けるよ」と言って、画面上に自分の名前を虹色に点滅させるプログラムを即興で作ってみせた。その瞬間、私の中で何かが決定的に変わった。「絶対に自分もMZ-2500を手に入れる」と心に誓ったのだ。

私の家には既に別メーカーの8ビットパソコンがあったが、MZ-2500への憧れは日に日に強くなっていった。アルバイト代を貯めては、秋葉原の電気街を歩き回り、MZ-2500のカタログや雑誌の特集記事を集めていた。『Oh!MZ』や『MZ-FAN』などの専門誌を熟読し、BASICやアセンブラのプログラミングについて独学で勉強した。いつか自分のMZ-2500でゲームを作りたいという夢を抱いていたのだ。

週末になると電車に乗って秋葉原に通い、ショップの店頭に並ぶMZ-2500を眺めるのが日課になっていた。秋葉原のとある小さなショップでは、店主が親切にも実機で様々なソフトを動かして見せてくれた。ワープロソフト「松」の美しい日本語表示、表計算ソフト「MZ-CALC」の高速処理、そして何と言っても「MZ-PAINT」というグラフィックソフトの色彩豊かな描画能力に魅了された。

心躍る体験 – 平成2年の夏

特に印象に残っているのは、平成2年(1990年)の夏休み、親戚の家に遊びに行った際に従兄弟がMZ-2500で動かしていた『スターシップレンデブー』というゲーム。3Dポリゴンで描かれた宇宙船が滑らかに動く様子に息を呑んだ。「これが家庭用パソコンでできるなんて…」当時の感動は今でも鮮明に覚えている。

従兄弟は私の熱意を買ってくれたのか、一週間泊まっていく間、毎晩MZ-2500の操作方法を教えてくれた。ディスクの入れ替え方から始まり、基本的なコマンド操作、BASICプログラミングの基礎まで。私は夢中になって吸収した。一緒にシューティングゲームのプログラムを少しずつ作っていったときの達成感は格別だった。帰る日には、従兄弟が使わなくなったBASICの解説本とゲームのディスクをいくつか譲ってくれた。その親切に、今でも感謝している。

その夏の体験から、私のMZ-2500への情熱はさらに燃え上がった。大学の図書館にあったコンピュータ関連の本をすべて読破し、夕方には理学部の数学科の講師に頼み込んで学校にあった古いパソコンを使わせてもらい、プログラミングの練習をした。「いつか必ず、MZ-2500を買うぞ」という目標に向かって、着実に知識を積み重ねていった。

冬になると、地元の電気店で「MZ-2500の展示処分品セール」の広告を見つけた。これはチャンスだと思い、すぐに店に駆けつけたが、すでに先客に買われた後だった。店員さんが「次回入荷の予約をしておきますよ」と言ってくれたが、結局その「次回」は訪れなかった。あの時の落胆と悔しさは、今でも心に残っている。

夢の実現 – 平成3年の春

平成3年(1991年)の春、ついに念願かなって中古のMZ-2500を手に入れることができた。既に後継機種が出ていたため、価格が手頃になっていたのだ。秋葉原の中古パソコンショップで見つけたその個体は、若干キーボードの感触が硬いという難点はあったものの、モニターの状態は良好で、オリジナルの箱と説明書まですべて揃っていた。

箱から取り出し、自室に設置した時の高揚感は何とも言えなかった。緊張する手つきでケーブルを接続し、電源を入れる。あの特徴的な起動音が鳴り、緑色の画面にシステムメッセージが表示された瞬間、「やっと自分のものになった」という実感が湧いてきた。初めて自分のプログラムが動いた時は、まるで魔法を使ったような気分だった。

最初の一ヶ月は、まるで恋に落ちたように夢中だった。学校から帰るとすぐに電源を入れ、夜遅くまでプログラミングや各種ソフトの操作に熱中した。従兄弟から譲り受けた初心者用BASIC入門ディスクを何度も繰り返し実行し、一行一行のコードを理解しようと努めた。時にはエラーメッセージに頭を抱えることもあったが、問題が解決した時の喜びはひとしおだった。

拡張の喜び – 平成4年の夏

平成4年の夏、アルバイト代を貯めて念願のハードディスクユニットを中古で購入した。それまでは5インチフロッピーディスクでデータの読み書きをしていたが、ハードディスクの導入で作業効率が格段に向上した。起動時間も短縮され、大容量のファイルも扱えるようになり、パソコンライフの質が一気に高まった。

同じ頃、地元のパソコン通信(今で言うインターネットの前身)にも目覚め、モデムを購入してMZ-2500を通信端末として使い始めた。電話回線を使った低速な通信だったが、全国のMZユーザーとの交流は新鮮な体験だった。「MZ通信倶楽部」というパソコン通信の掲示板では、知識豊富な先輩ユーザーからプログラミングのテクニックを教わったり、自作プログラムを交換したりした。

当時はまだインターネットが一般的ではない時代。パソコン通信は特別な世界だった。深夜になると電話料金が安くなるため、両親が寝静まった後にこっそりモデムを接続し、朝方まで全国の仲間たちと文字だけのチャットを楽しんだ。今から思えば、SNSの原型のような体験だったかもしれない。

別れの時 – 平成の進化とともに

平成が進むにつれて、より高性能なパソコンが次々と登場し、やがてMZ-2500は引退の時を迎えることになった。Windows搭載マシンの普及により、情報環境は大きく変わっていった。大学入学を機に新しいパソコンを購入し、MZ-2500は実家の押入れにしまわれることになった。

しかし、忘れられない出来事がある。大学3年生の時、情報処理の授業でプログラミングコンテストがあり、私はC言語で書かれたグラフィックアプリケーションを提出した。教授からは「どうしてこのような発想が浮かんだのか」と尋ねられ、私は迷わず「高校時代のMZ-2500との出会いがきっかけです」と答えた。その時、教授が「私も若いころはMZシリーズを使っていたよ」と微笑んだのだ。世代を超えたパソコンの絆を感じた瞬間だった。

就職後もIT関連の仕事に就いたが、技術の進化は目まぐるしく、MZ-2500の時代は遠い過去となっていった。しかし、今でも時折、あの独特の起動音や、キーボードの打鍵音が懐かしく思い出される。昭和の終わりから平成初期にかけて、MZ-2500に熱中した日々は、私の青春そのものだった。

思い出を超えて – 令和の時代に

平成から令和へと元号が変わり、パソコンを取り巻く環境も大きく変化した。クラウドサービスやスマートフォンの普及により、かつてのようにひとつのパソコンに執着する文化も薄れつつある。しかし、先日実家の整理をしていた際、偶然押入れの奥からMZ-2500の箱を見つけた。思い切って電源を入れてみると、驚くことに20年以上の歳月を経てもなお、あの懐かしい起動音とともに画面が点灯した。

ディスプレイに表示されたのは、私が最後に作っていたプログラムの画面だった。コードを見ていると、当時の自分の思考や工夫が読み取れ、不思議な時間旅行をしているような感覚に陥った。稚拙なプログラミングではあったが、今の複雑なシステム開発の基礎となる考え方が、すでにその中に芽生えていたことに気づかされた。

現在では、レトロコンピューティングという文化も生まれ、MZシリーズを含む懐かしのパソコンを再評価する動きもある。インターネット上には「MZ-2500保存会」のようなコミュニティもあり、修理パーツの情報交換や、現代のPCでMZ-2500をエミュレートする方法などが共有されている。私もそのコミュニティに参加し、当時の思い出や知識を若い世代と共有することがある。

おわりに – 変わらぬ情熱

技術の進化は目まぐるしく、今では手のひらサイズのスマートフォンでさえ、当時のMZ-2500の何千倍もの処理能力を持っている。だが、初めて触れた本格的なパソコンへの憧れと興奮は、どんな最新技術も超えられない特別な思い出として、私の心に刻まれている。

今でも仕事でプログラミングに行き詰まると、ふとMZ-2500での最初の一歩を思い出す。どんなに複雑な問題も、基本に立ち返れば解決の糸口が見つかるという教訓を、あのパソコンから学んだのだ。私の人生の分岐点で常に導いてくれたのは、あの黒い筐体に宿る「創造する喜び」だったのかもしれない。

シャープのMZ-2500。それは単なるパソコンではなく、私にとっては夢と可能性を示してくれた、かけがえのない存在だった。平成も終わり令和となった今、改めてその時代を振り返ると、あの黒い箱体に詰まっていた無限の可能性に、心から感謝したい気持ちでいっぱいになる。あのとき抱いた好奇心と創造性は、今も私の中で脈々と息づいている。