はじめに~時代を超える経済小説の力と、新時代が求める物語の姿
「金融腐蝕列島」「華麗なる一族」「海の長城」——これらの作品名を聞いて、胸が高鳴る若者は令和の日本にどれほど存在するだろうか。かつて昭和の時代、城山三郎、山崎豊子、高杉良といった作家たちが描いた経済小説は、日本社会に強烈な影響力を持っていた。バブル経済へと向かう高度経済成長期、そして崩壊後の混迷期において、これらの作品は単なるエンターテイメントではなく、時代の空気を切り取り、読者に社会構造の理解と批判的視点を提供する文学として機能していた。
しかし、令和の時代を生きる若者たちの目には、こうした昭和の経済小説はどのように映るのだろうか。デジタル化が進み、働き方や価値観が大きく変容した現代において、「会社」「出世」「経済成長」を軸に据えた昭和の経済小説は、なお彼らの心に響く力を持ちうるのだろうか。また、もしそうでないとすれば、令和の時代に相応しい新たな経済小説の姿とはどのようなものなのか。
本稿では、昭和の経済小説が持つ普遍的価値と時代的制約の両面を検証しながら、令和の若者たちの心に届く経済文学の可能性について考察していきたい。
昭和の経済小説が描いた世界
昭和の経済小説は、高度経済成長期からバブル崩壊までの日本社会を生き生きと描き出した。城山三郎の「鉄と魂」は戦後復興期の日本製鉄業を舞台に、企業再建に挑む経営者の姿を描いた。山崎豊子の「華麗なる一族」は財閥解体後の銀行界を舞台に、権力と金の論理を鋭く描写した。高杉良の「巨怪伝」シリーズは、実在の企業スキャンダルをモチーフに、企業社会の闇を抉り出した。
これらの作品に共通するのは、「組織」と「個人」の関係性を軸にした物語構造である。主人公たちは大企業や官僚組織の中で昇進を目指し、あるいは組織の腐敗と戦い、時には組織の論理に敗れ去る。そこには、終身雇用制と年功序列を基盤とした日本型雇用システムの価値観が色濃く反映されていた。
また、経済成長を国家目標とする時代背景の中で、これらの小説は「発展」「拡大」「競争」を自明の前提としていた。石油危機やバブル崩壊を扱った作品でさえ、その先には必ず「再生」「復活」が待っているという暗黙の了解があった。
令和の若者の現実
対して、令和を生きる若者たちの置かれた状況は大きく異なる。「失われた30年」を経て、彼らが目にする日本経済は停滞と縮小の時代にある。終身雇用制は形骸化し、フリーランスやギグワーカーといった新しい働き方が広がっている。SNSの普及によって情報の流れは民主化され、組織の閉鎖性や秘密主義は通用しなくなった。
価値観も変容している。「出世」や「成功」よりも「ワークライフバランス」や「個人の充実」を重視する若者が増え、企業への帰属意識は薄れてきている。また、環境問題やジェンダー平等への意識も高まり、無限の経済成長を善とする価値観へ疑問を持つ層も増加している。
このような現実を前に、昭和の経済小説が描く世界観はある種の「異世界」として受け止められるリスクがある。企業の命運を賭けた経営者たちの闘いや、出世競争に熱中するサラリーマンの葛藤は、令和の若者にとって実感を伴わない遠い物語に映るかもしれない。
それでも響く普遍的テーマ
しかし、昭和の経済小説が持つ価値は、時代設定や社会背景だけにあるわけではない。その本質には、時代を超えて人々の心に響く普遍的テーマが存在している。
第一に、「権力と闘う個人」というテーマだ。城山三郎の「落日燃ゆ」に描かれる、軍部の圧力と闘った財務官僚の姿は、時代を超えて「正義」のために立ち上がる個人の物語として共感を呼ぶ。山崎豊子の「沈まぬ太陽」における組織の理不尽さと闘う航空会社社員の姿も同様である。
第二に、「倫理的葛藤」の描写がある。経済活動の中で直面する道徳的選択の問題は、どの時代にも普遍的なテーマだ。利益を追求すべきか、社会的責任を果たすべきか。会社に忠実であるべきか、自らの信念に従うべきか。こうした葛藤は、組織に属する限り誰もが直面する問題だ。
第三に、「人間ドラマ」としての側面がある。昭和の経済小説の多くは、経済活動を通じて人間の欲望、野心、友情、裏切りといった普遍的な人間ドラマを描いている。これらは時代を超えて読者の心を掴む力を持っている。
歴史的資料としての価値
また、昭和の経済小説は歴史的資料としての価値も持っている。高度経済成長期やバブル経済など、今の若者が経験していない時代の「空気」を生々しく伝える窓としての機能を果たす。「なぜ日本がこのような社会になったのか」を理解するためのテキストとして、これらの作品は大きな価値を持つ。
この観点から見れば、昭和の経済小説は令和の若者にとって「異世界もの」ではあるが、それは現実から遊離したファンタジーではなく、自分たちの社会の起源を知るための歴史小説としての側面を持つ。彼らの親や祖父母が生きた時代を知り、現代社会の形成過程を理解するために、これらの作品を読む価値は大きい。
令和の経済小説はどうあるべきか
しかし一方で、令和の時代には令和の時代にふさわしい経済小説が必要なのも事実だ。では、令和の経済小説はどのような姿をとるべきだろうか。
まず、舞台設定や主人公の多様化が必要だろう。大企業や官僚組織だけでなく、スタートアップ、NPO、フリーランスなど多様な働き方を反映した設定が求められる。また、中高年の男性サラリーマンだけでなく、女性、若者、外国人など多様な視点からの物語も必要だ。
次に、デジタル化やグローバル化といった時代の変化を反映したテーマ設定が重要だ。AIやビッグデータが変える仕事の未来、プラットフォーム経済の光と影、SNSが変える企業と消費者の関係など、新しい経済の姿を描く物語が求められている。
さらに、「成長」や「拡大」以外の価値観を提示する物語も必要だ。持続可能性、多様性、包摂性といった新たな価値観を軸にした経済活動を描く小説は、令和の若者の共感を得やすいだろう。
新たな書き手の必要性
昭和の経済小説が令和の若者の心に届くためには、それを現代的文脈で解釈し直す批評家や研究者の役割も重要だが、何より求められるのは、令和の時代を鋭く切り取る新しい経済小説を書く作家の存在である。
城山三郎や山崎豊子らが活躍した時代、経済小説は社会の最前線を描く文学ジャンルとして確立していた。彼らはジャーナリストとしての素養を持ち、徹底した取材に基づいて作品を書いた。そして何より、彼らには現代社会を批判的に見つめる眼があった。
令和の時代にも、同様の作家が求められている。デジタル経済やグローバル資本主義の内側に潜り込み、その実態を描き出す作家。多様な働き方の現場を取材し、そこで生きる人々の葛藤を描く作家。そして何より、経済の仕組みが人々の生活や社会のあり方をどう形作るのかを、物語として伝えられる作家だ。
幸いなことに、近年では池井戸潤や真山仁、黒木亮といった作家たちが現代的な経済小説を手がけ、一定の評価を受けている。しかし、彼らの作品でさえ、主にバブル崩壊後の日本を描いており、令和の現実を鋭く切り取った経済小説はまだ少ない。
おわりに~対話を続けるために
昭和の経済小説は、時代の制約を超えた普遍的価値と歴史的資料としての価値を持ち、今の若者にも読まれる価値がある。しかし、それだけでは不十分だ。令和の若者の心に真に届く経済小説を生み出すためには、新たな視点と感性を持った作家の出現が待たれる。
過去の作品と対話し、その価値を受け継ぎながらも、現代の経済現象を鋭く切り取る新しい物語を紡ぎ出すこと。それが、経済小説というジャンルを生き続けさせ、令和の若者たちの心に届ける道だろう。
経済は単なる数字の羅列ではなく、人間の欲望や理想、葛藤が複雑に絡み合う営みである。その真実を物語として伝える経済小説の可能性は、令和の時代においても決して失われていない。むしろ、経済のあり方そのものが問い直されている今こそ、新たな経済小説の出現が待たれているのではないだろうか。
昭和の巨匠たちが遺した遺産を受け継ぎ、令和の現実に向き合う新たな経済小説家の登場、それこそが、時代を超えて経済小説が若者の心に語りかけ続けるための条件なのである。