経済学の世界では、しばしば相反する理論が並立し、それぞれに優秀な学者やエコノミストが支持を表明しています。その代表的な例が 「MMT(現代貨幣理論)」 と 「新古典派・新ケインズ派」 の対立です。
一方では 「財政赤字を恐れる必要はない」 とするMMTの主張があり、他方では 「財政赤字は長期的なリスクとなる」 という新古典派や新ケインズ派の考えがあります。これほどまでに知的レベルの高い人々が真逆の意見を持つのはなぜなのでしょうか?
1. 経済学は「実験」が難しい学問だから
経済学は、物理学や化学のように 実験によって明確な答えを導き出すことが難しい学問 です。例えば、物理学なら「万有引力の法則」を検証するために同じ条件で何度も実験できますが、経済では「日本が財政支出を倍増したらどうなるか?」といった実験を簡単に行うことはできません。
そのため、経済理論は 歴史の事例 をもとに推測するしかなく、解釈の違いが生まれます。例えば、MMT支持者は「日本は巨額の財政赤字を抱えてもインフレにならなかった」と主張し、新古典派は「それは低成長・人口減少の特殊なケース」と反論します。
2. どの前提を重視するかで結論が変わる
経済理論は 前提条件が異なれば、結論も大きく変わる という特徴があります。
新古典派・新ケインズ派の前提
- 「市場は基本的に効率的に機能する(ただし短期的には歪みが生じることもある)」
- 「財政赤字が増えると、将来の税負担増への懸念から消費や投資が抑制される(リカードの中立命題)」
- 「長期的な経済成長のためには、民間の投資を促進することが重要」
MMTの前提
- 「政府は通貨発行権を持つ限り、財政赤字は問題にならない」
- 「財政支出によって需要が喚起され、雇用や成長につながる」
- 「インフレが問題になった場合にのみ財政を引き締めるべき」
このように、どの前提を重視するかによって、結論が180度変わる のです。
3. 歴史的な事例:MMTは成功したのか?
MMTに基づく政策を試みた国々の事例をいくつか紹介します。
日本(1990年代以降)
日本は長年にわたって 財政赤字を拡大しながらも、ハイパーインフレにはならなかった という点で、MMT支持者の根拠としてよく挙げられます。実際、政府債務がGDPの250%を超えても、日本銀行が国債を買い支えることで金利は上昇せず、インフレ率も低いままでした。しかし、新古典派の立場からは 「経済成長が停滞しているため、インフレが抑えられているだけで、MMTの正当性を示すものではない」 という反論が出ています。
ジンバブエ(2000年代)
MMTの批判的な事例としてよく挙げられるのが ジンバブエのハイパーインフレ(2000年代) です。当時の政府は財政支出を大幅に拡大し、それを中央銀行の資金供給で賄いました。その結果、通貨の信認が失われ、2008年には 年間2億%のインフレ率 に達しました。MMT支持者は「ジンバブエは供給能力が不足していたために起こった事例で、MMTとは異なる」と主張しますが、「無制限の財政赤字がインフレを招く」というリスクは無視できません。
アルゼンチン(2010年代)
アルゼンチン政府は財政赤字を膨らませながら、中央銀行による国債の直接引き受けを行いました。その結果、インフレ率が50%を超え、国民の生活が圧迫されました。これは MMT的な政策が必ずしも成功しないことを示す一例 です。
4. MMTの理論的な弱点
MMTにはいくつかの理論的な弱点が指摘されています。
① インフレ管理の難しさ
MMTでは「財政赤字は問題にならないが、インフレが発生したら財政を引き締めるべき」とされています。しかし、現実には 政治的な理由で緊縮財政への転換が難しい ことが多く、インフレを制御できないリスクがあります。
② 通貨の信認の問題
政府が無制限に通貨を発行すると、市場の信頼を失い、通貨価値が急落する可能性があります。特に 外国からの投資や輸入に依存する国では、通貨安が経済危機を招く ことがあります。
③ 実際の経済環境との乖離
MMTは「失業を解消するために政府が積極的に財政支出すべき」と主張しますが、供給側の問題(生産性や技術革新の不足)が解決されなければ、単なる「無駄な支出」になりかねません。
正解は一つではない
MMTと新古典派・新ケインズ派の対立は、「どちらが100%正しい、どちらが100%間違い」というものではなく、経済の状況、前提、政治的背景によってどの理論が適用されるべきかが変わる というのが実態です。
歴史を振り返ると、経済学は「一つの理論がすべてを説明できる学問」ではなく、その時々の環境に応じて最適な理論を柔軟に選択することが重要 だと分かります。MMTの視点も、新古典派・新ケインズ派の視点も、それぞれが持つ強みと弱みを理解しながら、現実の政策にどう応用できるかを考えていくことが求められるのではないでしょうか。