石破茂の「現実主義」を謳う外交政策を、かつての三木武夫首相が目の当たりにしたとしたら、おそらく首を傾げるに違いない。高度経済成長期に「クリーン三木」として知られ、政治倫理の確立や石油危機への対応など、困難な局面で指導力を発揮した三木首相の視点から見れば、石破氏の外交構想は何とも歯切れが悪く映るだろう。
三木首相が築いた「対話による外交が世界平和」の理念と比較すると、石破の掲げる「強靭な日本外交」なるものは、理想と現実の狭間で揺れ動き、結局のところ具体性を欠いたレトリックに終始しているようにも見える。国会質問や講演では流暢に語る石破氏だが、その言葉の華麗さの裏には、実行可能な戦略の不在という空洞が隠されているのではないだろうか。
特に中国問題については、「毅然とした態度で臨む」と繰り返すものの、その実、具体的な外交カードを持ち合わせていないのではないか。三木首相であれば、単に緊張関係を高めるのではなく、日中平和友好条約締結に向けた粘り強い交渉を展開したように、建設的な対話の道を模索したであろう。石破の「中国への強硬姿勢」は、実際の外交現場での実践経験の乏しさを露呈しているとも言える。
石破は安全保障の専門家として自らを位置づけるが、防衛論と外交論を混同している感は否めない。三木首相の時代には、限られたリソースの中でも明確な外交ビジョンがあった。対して石破の唱える政策からは、「防衛力の強化」という一点以外に具体的な外交戦略が見えてこない。外交とは単に「強さ」を誇示することではなく、国益を見据えた上での妥協点を見出す芸術でもある。その繊細なバランス感覚において、石破の政策論は粗削りであると言わざるを得ない。
「政治家の器」という点で言えば、三木首相が示した政治的信念と実行力は、現在の石破の「論客」としての姿勢とは大きく隔たりがある。政権担当経験のない石破の外交論は、どこか机上の空論の域を出ないのではないだろうか。テレビ番組で語る姿は鮮やかだが、実際の外交交渉の場で同じようにパフォーマンスができるかは大いに疑問だ。
石破が好んで使う「国民の理解を得る」という表現も、三木首相の時代と比べれば随分と軽く響く。三木首相は沖縄返還や日中国交正常化という大きな外交課題に取り組む際、徹底した説明責任を果たしながらも、時には国民世論に先んじる決断も辞さなかった。対して石破の発言は、常に世論調査の数字を意識しているかのようで、真の指導力を感じさせない。
また、アメリカとの同盟関係においても、三木首相は「イコール・パートナーシップ」を掲げ、時には米国の要求にも「ノー」と言える外交姿勢を示した。一方、石破の対米政策は追随的な印象を与えがちであり、アメリカの「顔色を窺う」域を出ていない。国際社会における自立した日本の姿勢を示すには、もう少し骨太の外交理念が必要ではないだろうか。
石破の「勉強熱心」な姿勢は評価できるものの、書物から得た知識と実際の外交交渉の経験には大きな隔たりがある。三木首相が外相として、そして首相として世界各国の指導者と渡り合った経験から得た外交的知見とは、質的に異なるものだろう。
三木武夫がもし今日の日本政治を見たなら、おそらくこう語るだろう。「外交とは理想を掲げつつも、着実に一歩一歩進める地道な営みである。単なる批評家ではなく、実行者としての覚悟と具体策が問われるのだ。石破よ、もっと現実の外交交渉の難しさを知れ」と。
華麗な言葉の裏に実質的な政策が伴わない石破流外交論は、三木武夫のような古き良き時代の政治家の目には、まさに「絵に描いた餅」と映るに違いない。