「昭和20年代生まれという奇妙な生き物」
昭和20年代生まれ——彼ら彼女らは日本が戦争の焼け跡から立ち上がる混乱の時代に生を受け、高度経済成長の恩恵を享受した世代である。しかし、彼ら彼女らはその環境を「自分たちの努力の結果」と信じて疑わない。物心ついた頃には街は復興し、学校は整備され、社会は右肩上がり。競争はあれど、社会全体が豊かになっていく時代だったため、深い思考を巡らせずともそれなりに成功できた。
こうして育った彼ら彼女らは、自らを「戦後日本を支えた世代」だと誇るが、その実態は「努力せずとも飯が食えた最後の世代」に過ぎない。彼ら彼女らは戦後のどん底を経験したわけではなく、バブル期の狂乱の後始末をすることもなかった。それにもかかわらず、「俺たちは苦労した」「若い奴は甘えている」と主張し、現代社会の問題すら、自分たちの時代の成功モデルに当てはめて解決しようとする。だが、その成功モデルはすでに時代遅れであり、彼ら彼女らの価値観はまるで昭和という化石に閉じ込められた古代生物のようだ。
「短絡思考のプロフェッショナル」
昭和20年代生まれの思考は、驚くほどシンプルかつ直線的である。彼ら彼女らの発言をよく聞いていると、ほとんどが以下の3パターンに集約される。
- 「昔は良かった」
- 「最近の若い奴はダメだ」
- 「俺たちの時代は苦労した」
彼ら彼女らは何か問題が起きるたびに、これらのテンプレートを取り出し、現代のあらゆる事象を説明しようとする。しかし、その「昔」とは具体的にいつのことか? どの時代のどんな状況を指しているのか? そう尋ねると、曖昧な記憶と都合の良い過去を適当に切り貼りしただけの話が出てくる。つまり、彼ら彼女らにとって「昔は良かった」とは、自分が若かった頃は良かったというだけの主観的な感想に過ぎないのだ。
さらに、彼ら彼女らの主張には論理的な裏付けが一切ない。「最近の若者はダメだ」と言うが、具体的にどの点がダメなのかを説明しようとすると、「とにかく昔の方が良かった」「俺たちの時代にはそんなことはなかった」と、根拠のない精神論で押し切る。まるでネットの掲示板に書き込まれる低レベルなコメントのようだが、彼ら彼女らにとってはこれが「知的な議論」なのだから始末に負えない。
「矛盾を愛し、矛盾に生きる」
昭和20年代生まれのもう一つの特徴は、驚くほど自己矛盾に満ちていることだ。彼ら彼女らは「最近の若者は軟弱だ!」と怒鳴る一方で、自分たちが少しでも厳しい環境に置かれると「俺たちの時代にはもっと優しさがあった!」と文句を言う。また、「政治が腐っている!」と批判しながら、選挙に行くかと聞くと「誰がやっても同じだから行かない」と無責任な態度を取る。
さらに、「最近の若者はスマホばかりで人と会話しない」と文句を言いながら、自分たちは新聞の投書欄に匿名で意見を投稿し、「昔の日本には情があった」と語るが、電車の優先席では平然とスマホをいじりながら若者を睨みつける。彼ら彼女らは、自分が批判している若者と同じ行動を取っていることにすら気付かないのである。
「変化を拒む頑固な遺物」
テクノロジーが発達し、社会の価値観が多様化しても、昭和20年代生まれはその変化を頑なに拒む。彼ら彼女らの頭の中では昭和という黄金時代が永遠に続いているのだ。スマホを使いながら「最近の若者は機械に頼りすぎている」と言い、年金を受け取りながら「今の若者は働かない」と嘆く。
こうした現代社会とのズレを補うために、彼ら彼女らは「昔ながらの常識」という呪文を唱え続ける。しかし、その「常識」とやらは、昭和の終わりと共に消滅したものであり、現在の社会にはもはや適用不可能な代物だ。まるで古いOSを無理やり最新のパソコンにインストールしようとして、エラーを起こしているようなものである。
「時代に取り残される孤独な化石」
結局のところ、昭和20年代生まれの主張は、時代の流れに取り残された者たちの叫びである。彼ら彼女らの信じる価値観はもはや過去の遺物であり、現代社会では通用しない。変化を受け入れず、論理的思考を放棄し、自己矛盾に満ちた主張を繰り返す彼ら彼女らが、次第に社会の片隅へと追いやられるのは必然の流れだ。
そして最後には、誰からも相手にされず、「あの頃は良かった」と独り言をつぶやきながら、古いレコードの埃を払う。彼ら彼女らが信じる「素晴らしき昭和」は、すでに歴史の一部となり、もう二度と戻ってはこないということに気付くこともなく。