1960年、日本は大きな政治の転換点を迎えました。それが「60年安保」と呼ばれる安保闘争です。日米安全保障条約の改定をめぐり、全国で激しい抗議運動が繰り広げられました。当時の日本社会にどのような影響を与え、今日に何を残したのか。改めて考えてみたいと思います。
60年安保の背景
日米安全保障条約(安保条約)は、1951年のサンフランシスコ講和条約とともに締結されました。しかし、旧条約は日本側にとって不平等とされており、米軍の駐留を認める一方で、米国は日本を防衛する義務を負っていませんでした。そのため、1950年代後半には条約改定の動きが進み、岸信介内閣のもとで新条約が締結されることになりました。
新条約では、日本の防衛義務が強調され、米軍の駐留継続が明確に定められました。これにより、日本の安全保障が強化されるとする意見がある一方で、米国の軍事政策に巻き込まれるのではないかという懸念も広がりました。また、条約改定に至るまでの政治的過程において、政府が強引に国会での採決を進めたことも、国民の反発を招く要因となりました。
反対運動の広がり
新安保条約の内容に反発する声は強く、多くの国民が「日本が米国の戦争に巻き込まれるのではないか」との懸念を抱きました。大学生を中心としたデモやストライキが全国的に広がり、労働組合、市民団体、知識人などもこれに加わりました。
特に、全学連(全日本学生自治会総連合)をはじめとする学生運動が活発化し、各地で大規模なデモが行われました。労働組合の動員によるストライキや、文化人・作家・ジャーナリストなどの知識人による抗議声明も相次ぎ、安保闘争は全国的な広がりを見せました。
1960年6月15日には、国会議事堂前でのデモが激化し、東大生・樺美智子さんが警察との衝突の中で亡くなるという悲劇も起こりました。この事件は社会に大きな衝撃を与え、抗議の声はさらに高まりました。
政治と社会の転換点
結果として、新安保条約は6月19日に自然成立しましたが、岸内閣は強い批判を浴びて退陣を余儀なくされました。この出来事は、日本の民主主義のあり方を問う大きな契機となり、その後の政権運営や市民運動にも影響を与えました。
また、60年安保闘争を契機に、政治に対する国民の関心が高まり、マスコミの役割や世論の力が改めて認識されるようになりました。一方で、学生運動は次第に過激化し、1970年の安保改定時にも大規模な反対運動が発生しました。この流れは、のちの連合赤軍事件や過激派の活動にもつながることになります。
この時期、日本の政治構造にも大きな変化がありました。自民党は、その後の政権運営において世論の動向をより慎重に考慮するようになり、社会党などの野党も運動の広がりを受けて影響力を増しました。また、安保闘争以降、日本の政治運動において市民の声が重要視されるようになった点も注目されます。
60年安保が現代に残したもの
60年安保の経験は、現在の日本社会にも多くの示唆を与えています。政府と国民の関係、民主主義の成熟、集団的な行動の意義など、当時の運動が現代にも通じる課題を提起しています。
現在でも、日本の安全保障政策をめぐる議論は続いています。自衛隊の役割、集団的自衛権の問題、米軍基地の存在など、60年安保と同じく国のあり方を問う問題が山積しています。60年安保の運動が残した教訓を生かしながら、私たちはこれらの問題と向き合っていく必要があるのではないでしょうか。
私たちは今、あの時代の人々が何を考え、何を求めて行動したのかを振り返りながら、現代の政治や国際関係を考える必要があるのではないでしょうか。60年安保は決して過去の出来事ではなく、今なお私たちに問いかけるものがあるのです。