中村哲の遺志を継ぐ – 平和への日本の進路を考える

平和の象徴としての医師

2019年12月、アフガニスタンで凶弾に倒れた中村哲医師。その訃報は日本中に衝撃を与えました。医師としてだけでなく、「百の診療所より一本の用水路」という信念のもと、干ばつに苦しむアフガニスタンに水を届け、荒廃した大地を緑に変えた彼の姿は、国際協力の理想形として多くの人々の心に刻まれています。

中村医師が遺したものは、単なる用水路や病院の建物だけではありません。それは異なる文化・宗教を持つ人々との深い信頼関係であり、武力によらない平和構築の可能性でした。彼は銃を持たずして紛争地域で30年以上にわたり活動を続け、現地の人々から「カカムラッド(中村兄弟)」と慕われました。

中村哲の実践した国際貢献の本質

中村医師の活動の特徴は、上から目線の「援助」ではなく、現地の人々と共に汗を流す「協働」にありました。ペシャワール会の代表として赴任した当初は医療活動に専念していましたが、1990年代末の大干ばつを目の当たりにして、「医療だけでは人々を救えない」という現実に直面します。

そこから彼は医師の枠を超え、伝統的な灌漑技術「カレーズ」の復興や、用水路建設プロジェクトへと活動を広げていきました。驚くべきことに、中村医師は現地の人々と共に重機を操作し、自ら設計図を引き、時には危険を冒して最前線で作業に当たったのです。

このプロジェクトは、単なる技術移転ではなく、アフガニスタンの伝統と現代技術を融合させた画期的なものでした。結果として、約16,500ヘクタールの農地が回復し、約10人の生活基盤が確保されたと言われています。さらに重要なことに、このプロジェクトは地域住民自身によって維持・管理されるようになり、持続可能な発展のモデルとなりました。

現代日本の安全保障政策の転換点

一方、現在の日本はどのような道を歩もうとしているでしょうか。2022年末に改定された国家安全保障戦略では、防衛費を現在のGDP比1%程度から、NATO基準の2%へと大幅に増額する方針が示されました。2023年度から5年間で43兆円という過去最大規模の防衛費が計画され、「反撃能力(敵基地攻撃能力)」の保有も明記されています。

周辺国、特に中国や北朝鮮の軍事的脅威の高まりを受けての対応であることは理解できます。しかし、軍拡競争の道を進むことが、本当に日本と東アジア地域の安全と平和につながるのでしょうか歴史を振り返れば、軍備拡張の連鎖が最終的に紛争を招いた例は少なくありません

安全保障において防衛力の整備が必要な側面はあるものの、軍事的アプローチに偏重することで、外交や国際協力など非軍事的な平和構築の選択肢が軽視されてしまう危険性があります。日本国憲法が掲げる平和主義の精神が形骸化していくことを懸念する声も少なくありません。

中村哲が示した「人間の安全保障」という選択肢

中村哲医師が実践したのは、「人間の安全保障」という概念に通じるアプローチでした。これは国家中心の伝統的安全保障観とは異なり、個人の生存・生活・尊厳に焦点を当てた安全保障の考え方です。

アフガニスタンという激動の地で、中村医師が武装せずに活動を継続できたのは、単に運が良かったからではありません。現地の人々との信頼関係を丁寧に構築し、すべての部族や勢力に対して中立的立場を貫き、そして何より、目に見える形で人々の生活改善に貢献したからこそです。タリバンでさえ、彼の活動を妨害することはありませんでした。

「武力ではなく、水と緑で平和を築く」という中村医師の言葉には、単なる理想論ではない、現実的な平和構築の知恵が込められています。食料安全保障や水資源管理、環境保全といった「人間の安全保障」の要素が満たされることで、紛争の根本原因に対処することができるのです。

日本の国際貢献の可能性:中村哲の遺志を継ぐ道

日本は世界の経済大国でありながら、その強みは必ずしも軍事力にあるわけではありません。むしろ、技術力、災害対応能力、平和構築の経験など、非軍事的な分野に日本の真価があると言えるでしょう。

例えば、水資源管理や持続可能な農業技術は、気候変動による水不足や食料危機に直面する多くの国々にとって喫緊の課題です。日本が培ってきた防災技術や復興のノウハウは、自然災害の増加に対応するために世界中で求められています。また、日本の医療技術や公衆衛生の知見は、パンデミック対策や保健システム強化に大きく貢献できるでしょう。

さらに、日本が戦後の焼け野原から平和国家として再建された経験そのものが、紛争後の国家再建に取り組む国々にとって貴重な参考事例となります。憲法九条に象徴される平和主義の理念は、単なる理想ではなく、日本の安全保障政策の基盤として機能してきました。

軍拡と平和貢献の適切なバランスを求めて

もちろん、変化する国際情勢の中で、日本が防衛力の整備をまったく行わないという選択肢は現実的ではないかもしれません。しかし、防衛費の増額と同等以上の資源と情熱を、非軍事的な国際貢献にも振り向けることが重要です。

例えば、政府開発援助(ODA)予算は、防衛費の増額とは対照的に、長期的な減少傾向にあります。2022年度のODA予算は約5,600億円で、防衛費の約5分の1に過ぎません。この不均衡を是正し、国際協力予算を大幅に拡充することで、日本独自の平和貢献の道を模索すべきではないでしょうか。

中村哲医師のような草の根レベルの国際協力活動に対する支援も強化されるべきです。NGOや市民社会との協働を通じて、政府レベルでは届かない現場のニーズに対応することができます。

おわりに~次世代に伝えるべき中村哲の精神

中村哲医師は生前、「一人の日本人として、日本の国益だけを考えるのではなく、アフガニスタンの人々のために何ができるかを考えてきた」と語っています。この言葉には、真の国際貢献のあり方が凝縮されています。

相手の文化や歴史を尊重し、対等なパートナーとして関わること。短期的な成果よりも、長期的な自立支援を重視すること。そして何より、現地の人々の目線に立って、彼らと共に課題に取り組む姿勢。これらは中村医師が体現した国際協力の原則であり、日本が世界に誇れる外交資産と言えるでしょう。

軍事力増強による「抑止力」ばかりに目を向けるのではなく、中村哲医師が示した「信頼関係構築による平和」という選択肢にもっと注目すべきです。防衛費43兆円の一部でも、中村医師のような国際貢献活動に振り向けられたら、どれほど多くの人々の生活が改善され、日本への信頼が高まることでしょうか。

私たち日本人は、中村哲医師の遺志を継ぎ、真の国際平和への道を模索していく責任があります。それは軍事力ではなく、人々の命と尊厳を守る活動を通じて、世界平和に貢献していく道なのです。

この地球上に国境線を引いたのは人間だ。だから、その線は人間の手で消すこともできる」という中村医師の言葉を胸に、私たちは次の一歩を踏み出すべきではないでしょうか。