【瀬戸内寂聴の人生に学ぶ】出家前と出家後、どちらが「人間的に充実」していたのか?

はじめに

日本文学界に燦然と輝く星として、瀬戸内寂聴(1922-2021)の名は現代においても色あせることがありません。作家であり、仏教の尼僧であり、社会活動家でもあった彼女は、一人の人生の中に複数の顔を持ち、それぞれの時代において日本社会に大きな影響を与えました。

この記事では、出家前の瀬戸内晴美としての生き方と、出家後の瀬戸内寂聴としての人生を比較し、どちらの時期が本人にとってより充実していたのかを考察します。彼女の波乱に満ちた人生と卓越した文学的才能をまず讃えつつ、人間としての彼女の内面的な変化と成長に焦点を当てていきたいと思います。

瀬戸内晴美時代:情熱と葛藤の日々

早期の人生と文学への目覚め

1922年、徳島県の裕福な家庭に生まれた瀬戸内晴美(本名:瀬戸内春美)は、幼少期から文学に親しみ、早くから創作活動を始めました。東京女子大学在学中に文学への情熱を育み、卒業後は結婚しますが、その後の人生は日本の伝統的な「良妻賢母」の枠には収まらないものとなります。

文学的成功と私生活の波乱

1956年、「女子大生・曲愛玲」で新潮同人雑誌賞をを受賞したが、その後発表した作品が卑猥と評価され、暫くの間文壇から干されました。その後「夏の終り」の発汗から女流作家としての地位を確立した瀬戸内は、その後も精力的に創作活動を続けました。しかし、彼女の名を世間に知らしめたのは、文学的才能だけではありませんでした。

結婚、不倫、離婚を経験した瀬戸内の私生活は、当時の保守的な日本社会では大きなスキャンダルとなりました。夫との離婚後も社会からの批判は続きました。この時期の瀬戸内は、己の欲望と感情に忠実に生き、社会の規範や道徳観に縛られることを拒みました。

女性の性と自由を描いた文学

晴美時代の瀬戸内の文学は、女性の性と愛、そして自由を大胆に描いたものが多く、「夏の終り」「花芯」「女の一生」などの作品は、当時の日本文学界に新たな風を吹き込みました。彼女の作品は、特に多くの女性読者から共感を得ました。それは、女性の内面的な葛藤や欲望を、タブー視せずに赤裸々に描いた点にあります。

この時期の瀬戸内の生き方と作品は、多くの女性に解放と勇気を与えました。しかし同時に、彼女自身は社会からの批判や孤立感、内面的な葛藤に苦しんでいた側面もあります。文学的成功を収めながらも、心の平安を見出せない日々だったと言えるでしょう。

精神的な迷いと出家への道

40代後半になると、瀬戸内は次第に精神的な迷いや虚無感に襲われるようになります。文学的成功、恋愛、自由な生き方、これらすべてを手に入れながらも、心の奥底では満たされない何かがあったのです。彼女はこの時期、仏教に関心を持ち始め、精神的な救いを求めるようになります。

晴美時代の瀬戸内は、まさに激しい情熱と深い葛藤の間で揺れ動く日々を送っていたと言えるでしょう。自由に生きることで批判を受けながらも、その経験が彼女の文学的創造性を刺激し、多くの名作を生み出す原動力となりました。しかし、その代償として支払った精神的な苦悩も大きかったのです。

出家後の瀬戸内寂聴:平穏と智慧を求めて

出家の決断

1973年、51歳で瀬戸内は大きな決断をします。天台宗の尼僧となり、「寂聴」という法名を得て新たな人生を歩み始めたのです。この決断は当時、文壇はもちろん社会全体に衝撃を与えました。才能ある作家がなぜ出家するのか、創作活動は終わりなのか、様々な憶測が飛び交いました。

しかし、瀬戸内の出家は文学活動の終焉ではなく、むしろ新たな始まりでした。彼女は出家後も執筆活動を続け、むしろ以前よりも多作になったと言われています。出家は彼女に新たな視点と精神的な安定をもたらし、それが創作活動にも良い影響を与えたのです。

仏教と文学の融合

寂聴となった瀬戸内は、仏教の教えと文学を見事に融合させ、独自の文学世界を築き上げていきます。「風景」「場所」「白道」などの作品では、人間の内面と宗教的思索が深く描かれ、読者に新たな感銘を与えました。

また、彼女は源氏物語の現代語訳など古典文学の普及にも尽力し、10年の歳月をかけて完成させた源氏物語の訳は、多くの読者に古典文学の魅力を伝えることになりました。出家という行為が、彼女の文学的視野をむしろ広げ、深めたと言えるでしょう。

社会活動家としての側面

出家後も瀬戸内は社会問題に積極的に関わり続けました。反戦運動や社会的弱者の支援など、社会活動家としての一面も見せたのです。特に晩年は、東日本大震災後の復興支援や、原発問題、平和憲法を守る運動に精力的に取り組みました。

2015年、93歳の高齢にもかかわらず、安全保障関連法案に反対する国会前でのデモに参加し、「命を大事にしない国に未来はない」と訴えた姿は、多くの人々の心に深く刻まれています。彼女の社会的発言は、仏教の慈悲の精神に基づいたものであり、多くの人々に影響を与えました。

人生相談と人々との交流

寂聴時代の瀬戸内は、人間の苦しみや悩みに寄り添い、愛と慈悲の精神を体現する存在でした。京都嵯峨野の寂庵には多くの人々が訪れ、人生相談を持ちかけました。彼女は晴美時代の経験を活かしながら、仏教の智慧を交えて、悩める人々に寄り添いました。

また、新聞や雑誌での人生相談コーナーも長く担当し、その回答は常に温かく、時に厳しく、人々の心に届くものでした。出家したことで社会から離れるのではなく、むしろより広く深く人々と関わるようになったのです。

二つの人生~どちらがより充実していたのか

瀬戸内自身の言葉から

瀬戸内自身は晩年、複数のインタビューや著書の中で「出家してよかった」と語っています。彼女にとって出家は、決して世俗から逃避するためのものではなく、むしろ自分自身と向き合い、人生をより深く生きるための選択でした。

「出家したから文学が書けなくなるわけではない。むしろ、より深い視点から人間を見つめることができるようになった」と彼女は語っています。出家によって得られた内面の平穏と、それでいて文学活動や社会活動を続けられたことが、彼女にとって理想的なバランスだったのでしょう。

晴美時代と寂聴時代の対比

晴美時代は、情熱と葛藤の日々でした。自由に生きることで批判も受けましたが、それが文学的創造性を刺激し、多くの名作を生み出す原動力となりました。一方で、社会からの批判や内面の葛藤に苦しんだ時期でもありました。

寂聴時代は、内面の平和を得つつも、社会への関心を失わない充実した日々でした。出家は彼女に新たな視点と精神的な安定をもたらし、それがより幅広い文学活動と社会活動を可能にしました。また、晴美時代に経験した人生の苦悩や喜びが、寂聴時代の智慧の源泉となったことも見逃せません。

晴美時代の経験が寂聴時代を豊かにした

重要なのは、晴美時代の経験があったからこそ、寂聴時代の深みが生まれたという点です。彼女は出家後も、過去の自分を否定することなく、むしろその経験を活かして人々の悩みに寄り添いました。恋愛や結婚、離婚、不倫といった人生の困難を自ら経験したからこそ、同じ悩みを持つ人々に共感できたのです。

瀬戸内は自伝的小説「花芯」の中で、「私は禁欲的な人間ではないし、これからもそうありたくない」と書いています。出家後も彼女は決して堅苦しい仏教者になったわけではなく、人間の欲望や感情を理解し、受け入れる姿勢を持ち続けました。それが多くの人々に親しまれた理由の一つでしょう。

晴美時代と寂聴時代で、彼女の創作スタイルや主題には変化が見られます。晴美時代は女性の性と愛を大胆に描いた作品が多かったのに対し、寂聴時代では人間の内面的な葛藤や精神性に焦点を当てた作品が増えました。

創作活動の変化と成熟

しかし、それは単なる変化ではなく、作家としての成熟とも言えるでしょう。晴美時代の鋭い感性と情熱は、寂聴時代になって智慧と慈悲の心と融合し、より深みのある文学を生み出しました。源氏物語の現代語訳に取り組んだのも、人間の複雑な感情や葛藤を描いた古典に、自らの経験を重ね合わせることができたからではないでしょうか。

終わりに~人生の完成形としての寂聴時代

結論として、どちらの時期がより充実していたかは一概に言えませんが、瀬戸内自身の言葉や晩年の充実ぶりを見れば、出家後の寂聴時代がより彼女自身にとって満足のいく人生だったと考えられます。晴美時代の情熱と葛藤があったからこそ、寂聴時代の智慧と平穏があり、その二つの人生が一人の偉大な文学者を形作ったのです。

瀬戸内寂聴は、「自分の人生を生きた」という言葉通り、常に自分自身に忠実に生きました。晴美時代は欲望と感情に忠実に、寂聴時代は内なる平和と慈悲の心に忠実に。そして、どちらの時期も文学への情熱は変わらず、最期まで筆を握り続けました。

瀬戸内寂聴は、2021年11月9日、99歳で亡くなるまで文筆活動を続け、最期まで知的好奇心と社会への関心を失わなかった稀有な存在でした。彼女の二つの人生は、ともに日本文学と社会に大きな足跡を残し、多くの人々に影響を与え続けています。

彼女が残した言葉、「人間は死ぬまで変われる、成長できる」という信念は、まさに彼女自身の人生を象徴するものであり、私たち読者にも大きな勇気と希望を与えてくれるものです。瀬戸内寂聴という一人の人間が生きた二つの人生から、私たちは多くのことを学ぶことができるでしょう。

現代社会において、瀬戸内寂聴の生き方は多くの示唆を与えてくれます。特に、年齢に関係なく変化し、成長し続けることの可能性を体現した点は、高齢化社会を迎えた日本に大きなメッセージを残しています。